- 区分/種別
- 指定なし
- 所在地
- 壬生町本丸1丁目(壬生町城址公園)
- 時代
- 近世-江戸時代
- ルート
- 聖地日光へつづく道
寛正3(1462)年、壬生綱重(みぶ つなしげ)によって築かれる。壬生氏没落後は城主が度々変わるも、正徳2(1712)年に鳥居忠英(とりい ただてる)が近江国水口(みなくち)から移ってくると、以後幕末まで鳥居家が壬生の地を治めた。徳川将軍家の日光への参拝(日光社参)の帰り道、四代将軍家綱までは壬生城が宿泊所となった。
徳川将軍家の宿所としての壬生城
壬生城が「聖地日光への玄関口」となったきっかけは、日光東照社の造営だった。さらに開祖家康の命日に合わせて参拝する日光社参では、帰路の宿館として壬生城本丸内に書院造の御殿が建設され、563坪990畳という、まさに将軍家の宿館に相応しい規模を誇っていた。
徳川家への忠義を全うした藩祖
城跡の東北隅には、壬生藩鳥居氏の藩祖である鳥居元忠をご祭神とする精忠神社が祀られている。神社拝殿の北には関ヶ原の戦い前に元忠が西軍を伏見城で迎え撃ち、籠城の末に討ち死した時に血に染まった畳(江戸時代を通じて江戸城で大切に保管されていた)を祀る「畳塚」がある。