- 区分/種別
- 国宝
- 所在地
- 大田原市湯津上
- 時代
- 飛鳥時代
- ルート
- 都とみちのくをむすぶ東山道
文武4(700)年頃、那須直韋提(なすのあたいいで)の業績をたたえ、跡継ぎの意斯麻呂(おしまろ)らにより建立した日本三古碑のひとつ。長らく草むらの中に埋もれていたが、延宝4(1676)年に旅の僧円順と庄屋大金重貞によって発見された。天和3(1683)年には、重貞が記した『那須記』を領地であるこの地を訪れていた水戸藩主徳川光圀に献上し、世に知られるきっかけとなった。現在、笠石神社の御神体として祀られている。
※拝観料あり 拝観する際は、事前に予約のこと(TEL:0287−98−2501)
徳川光圀が注目した古碑
この碑の存在を知った水戸藩主・徳川光圀は、石碑の保存顕彰のため元禄4(1691)年に碑堂を建立。碑文に記された人物・那須直韋提(なすのあたいいで)の墓を探すため、侍塚古墳の発掘調査を実施したが、被葬者は明らかにならなかった。
笠石神社の御神体に
碑文の「永昌」は唐の則天武后の時代の年号であり、文字が六朝の書風、「日本書紀」に新羅人を下野国に居住させたという記事があることなどから、碑の建立には渡来人がかかわっていると考えられている。石碑は笠石神社の御神体として祀られ、石の上に笠のように石を載せていることから「笠石」とも呼ばれる。