特集
メニュー
文字サイズ
文字サイズ小
文字サイズ中
文字サイズ大

トップページ | 特集 | 石をめぐる冒険〜石が刻むとちぎの文化財〜 | 石と人を運ぶ 〜とちぎは人車鉄道王国〜

【コラム】石と人を運ぶ 〜とちぎは人車鉄道王国〜

明治期以降、急速な近代化の流れの中、大谷石(凝灰岩)や石灰石などの需要が県内外でも高まってきました。そうした中で明治時代後期に登場したのが「人車鉄道(軌道)」と呼ばれる輸送機関です。人車鉄道は日本各地で29路線が敷設され、そのうち栃木県内では7路線と全国有数の「人車鉄道王国」でした。

  • 喜連川人車鉄道の客車と押夫(所蔵・写真提供:さくら市ミュージアム –荒井寛方記念館)

  • 那須人車軌道復元客車(所蔵・写真提供:那須野が原博物館)

「人車鉄道」とは?

人車鉄道とは、レール上の客車や貨車を人力で押して運行する鉄道のこと。では、明治期にはすでに蒸気機関車が走る鉄道が各地で開通されていたのに、なぜ人車鉄道が各地で敷設されていたのでしょうか?それは、設備が小規模であり、また既存の道路が使えたため、鉄道建設に要する資金が少額で済むことから、比較的容易に敷設できたためです。

  • 宇都宮石材軌道大谷停車場(明治42年:所蔵・栃木県立図書館、写真提供:那須野が原博物館)

  • 那須人車軌道で使われたレール左上は60Kレール(比較のため)(所蔵・写真提供:那須野が原博物館)

人車鉄道の役割

人車鉄道の主な目的は、重さの割には価格が安い石材や石灰といった地域特産物の輸送と、すでに開通していた鉄道路線へ人を運ぶためでした。その背景には、販路拡大によって増産の可能性を拡げようとしたことと、東京との人々との往来を目指したことがあり、いずれも地域の人々による近代化への願いが反映されていました。中には、鉄道で輸送されてきた物資を河岸に運ぶことで、舟運を利用して鉄道よりも安く輸送し、河岸の衰退を食い止めようとした個性的な目的もありました。

  • 栃木の市街地(倭町)に敷設された鍋山人車鉄道の軌道(大正期:所蔵・写真提供:栃木市教育委員会)

  • 鍋山軌道が発行した絵葉書(昭和16年以降:所蔵・栃木県立文書館大栗新一郎家文書、写真提供:栃木県立文書館)

人車鉄道の終焉

動力が人力であり、そしてそれを前提とした設備でしかないため、人車鉄道には自ずと限界がありました。栃木県の人車鉄道も、大正から昭和の初めまでには一部を除いて相次いで路線が廃止され、人車から馬車やガソリン機関車、あるいは軽便鉄道へと移っていきました。

  • 鍋山軌道用に設計・製造されたガソリンカー(昭和戦中期:所蔵・栃木県立文書館大栗新一郎家文書、写真提供・栃木県立文書館)

  • 岩舟山から高取河岸(栃木市藤岡町甲)を結んだ岩舟人車鉄道の跡(1992年撮影、板橋雄三郎氏提供)

《参考文献》
  • 『帝釈人車鉄道』(かつしかブックレット15、葛飾区郷土と天文の博物館、2006年)
  • 『栃木の人車鉄道』(栃木県立文書館、2009年)
  • 『近代鉄道事情』(那須野が原博物館、2011年)

栃木県内にあった人車鉄道

人車鉄道名 運輸 貨物種類 特許年 開業年 失効年* 区  間
宇都宮軌道運輸(のち、宇都宮石材軌道) 旅客貨物 大谷石 明治29(1896) 明治30(1897) 昭和27(1952) 宇都宮市〜城山村・国本村・富屋村・姿川村(いずれも、現・宇都宮市)
全国で3番目に開業。明治39(1906)年に野州人車鉄道を合併し、社名を「宇都宮石材軌道」と改める。大正4(1915)年に荒針〜鶴田間に石材輸送専用の軽便鉄道を開通。昭和6(1931)年、東武鉄道に合併。石材専用軽便鉄道は、東武宇都宮線西川田駅に接続され、昭和39(1964)年まで稼働した。
野州人車鉄道 旅客貨物 新里石(花崗岩) 明治30(1897) 明治32(1899) 昭和39(1906) 宇都宮市〜国本村、富屋村(いずれも、現・宇都宮市)
当初は貨車営業のみだったが、開通の翌月から客車運転を開始。明治36(1903)年に支線の富屋線を開通。旅客輸送以外に三井鉱山関連物資の輸送も視野に入れるも経営は好転せず、明治39(1906)年に宇都宮軌道運輸へ合併する。なお、本路線は昭和初期まで存続した。
乙女人車鉄道 貨物 薪炭→砂利 明治32(1899) 明治32(1899) 大正6(1917) 間々田村(現・小山市)乙女河岸〜間々田駅
日本鉄道間々田駅と乙女河岸を結ぶ1.6kmほどの路線。主な輸送は県北から運ばれる諸物資で、間々田駅で荷下ろしし、物資を乙女河岸より舟運する中継役を人車が負った。のち、思川の砂利を間々田駅へ輸送するため、馬車鉄道を導入した。
鍋山人車軌道 旅客貨物 石灰石 明治29(1896) 明治33(1900) 昭和16(1941) 寺尾村〜栃木町(いずれも、現・栃木市)
鍋山地区で産出される石灰石やこれを焼成した石灰製品を両毛鉄道栃木駅へ輸送するために敷設。しかし栃木町の中心部を走っていたため、積荷の石灰の粉塵が家屋や商店にかかったり、交通渋滞や事故を引き起こしていたため、中心部からはずれた路線に変更。昭和16(1941)年にガソリンカーが導入され人車は姿を消すも、昭和35(1960)年に正式に廃止となった。
岩舟人車鉄道 貨物 岩舟石 明治30(1897) 明治33(1900) 大正5(1916) 岩舟村(現・栃木市岩舟町)〜三鴨村(現・栃木市藤岡町)
岩船山で切り出される岩舟石の輸送を目的に開通。貨車18台を有し、舟運への中継点である渡良瀬川の高取河岸へ輸送した。人車鉄道営業停止後の大正6(1917)年、これに代わる内務省の軽便鉄道が開通した。なお、旧下都賀郡赤麻村(現・栃木市藤岡町)出身の第27代横綱栃木山守也は少年時代、ここで貨車押しの仕事をし鍛えられたという。
喜連川人車鉄道 旅客貨物 - 明治33(1900) 明治35(1902) 大正7(1918) 喜連川町〜氏家町(いずれも、現・さくら市)
喜連川の旅客を氏家へ輸送することを目的に開通。その狙いは、日本鉄道氏家駅を介しての喜連川から東京方面の人の流れであったという。
那須人車軌道 旅客貨物 - 明治40(1907) 明治41(1908) 昭和9(1934) 大田原町(現・大田原市)〜西那須野村(現・那須塩原市)
大田原の有志と塩原の有志が日本鉄道西那須野駅をはさんで東西にそれぞれの人車鉄道を計画したのがはじまり。大正6(1917)年に人車と馬車を併用するも、翌7(1918)年に蒸気機関の東野鉄道が並行して開業すると、これに対抗して定期便を増発し業績は好転。しかしその効果は一時的だったという。

表:栃木県内の人車鉄道一覧(葛飾区郷土と天文の博物館編『帝釈人車鉄道』所収「全国開業人車鉄道一覧」より栃木県内のみ抜粋)

*「失効年」とは、失効または動力から人力がなくなった年