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トップページ | 特集 | 四季を彩る文化財 | 「蔵の街とちぎ」の誕生

【コラム】「蔵の街とちぎ」の誕生〜幕末の大火が生んだ景観〜

旧日光例幣使道が通る栃木市中心部は、江戸時代末期から昭和時代前期にかけて建造された蔵が多く立ち並ぶことから、「蔵の街とちぎ」と呼ばれています。その起源は、戦国時代末期から江戸時代のはじめにかけて、この地を治めていた皆川氏による城下町建設にまで遡ります。

道と河岸の整備と栃木町(宿)の形成

江戸時代のはじめ、皆川氏の居城だった栃木城の城下町は、皆川氏がこの地を去った後、「栃木町」の名で日光への交通の要衝地として、道と河岸(かし)が整備され発展しました。

町は南から、下町(現・室町)・中町(現・倭町)・上町(現・万町)に区画され、その町割と地割は現在まで受け継がれています。町の中心を通る大通りは、皆川氏が城下町を建設した頃にはすでに幹道だったようで、正保3(1646)年の日光東照宮の例祭に朝廷から例幣使が派遣されると、一行はこの大通りを通過し日光へ向かいました。この道が「日光例幣使道」であり、栃木町は「栃木宿」として宿駅の町並みがつくられました。また天正年間(1573〜92)の頃、町の北部、巴波川(うずまがわ)東岸の日光例幣使道沿いの細長い地域に、かつては武士でこの地に帰農した岡田嘉右衛門(かえもん)によって開発された「嘉右衛門新田」は、栃木町の発展とともに町場化しました。

一方河岸は、元和年間(1615〜24)に「栃木河岸」として巴波川に整備され、元和2・3年の日光東照社造営の御用荷物に関係した荷揚げが行われていたと考えられています。以降、江戸方面と日光・足尾方面の山間地域との物資の集散地として大いに賑わいました。

  • 天保年間(1830〜45)以前に建造された栃木町を代表する豪商「釜佐」の「善野家土蔵」(通称「おたすけ蔵」、栃木市万町:市指定)

  • 巴波川左岸に位置する旧材木問屋で、栃木河岸の繁栄を今に伝える「塚田歴史伝説館」(栃木市倭町:国登録)

幕末の大火と蔵造りの町並み

栃木町は幕末期に4度(弘化3[1846]年・嘉永2[1849]年・文久2[1862]年・元治元[1864]年)の火災に遭っています。中でも元治元年の火災は尊王攘夷派の天狗党による焼き打ちが原因で、237軒が焼失したとされます。これらの大火をきっかけに、栃木町では瓦屋根、土蔵造りが普及し、見世蔵*に象徴される独特の蔵造りの建造物が立ち並ぶ景観がつくられたと考えられています。

*見世蔵:外壁を土壁で厚く塗り込め、漆喰(しっくい)仕上げとした大壁造の町家(店舗)で、大火が相次いだ江戸で江戸時代後期に成立した木造防火建築のこと

  • 旧栃木町に現存する最古の見世蔵(弘化2[1845]年)で、現在市が取得し「とちぎ歌麿館」として活用されている「古久磯提灯店見世蔵」(栃木市万町:県指定)

「毛塚惣八」(部分、『大日本博覧図 栃木県之部』:明治23[1890]年、栃木県立博物館蔵)。「毛惣」で知られていた毛塚肥料店を描いた銅版画で、文久元(1861)年建造の見世蔵は、下野新聞社栃木支局として利用されている(栃木市万町:国登録)

「蔵の街とちぎ」を象徴する見世蔵

平成17(2005)年度、栃木市の中心部を対象に実施した調査で、792棟の歴史的建造物*が確認されました。特に、旧日光例幣使道沿いの室町・倭町・万町(旧下・中・上町)とその北側の嘉右衛門町(旧嘉右衛門新田)などに集中していることもわかりました。中でも、栃木市の歴史的建造物を特徴づけているのが蔵造りの建造物です。

土蔵や石蔵の多くが敷地の奥に位置するのに対して、重厚な外観によって町並みの景観を印象付けているのが通りに面する見世蔵です。火事から財産を守るため店舗を土蔵造りにした見世蔵は、江戸時代後期に登場し、江戸時代末期から明治時代にかけて関東から東北地方に広まり、さらに中部や北陸地方の一部にも導入されたことが知られています。栃木市に現存する見世蔵の大半は、切妻造・平入り・瓦葺の2階建で、通りに面して下屋庇を張り出し、外部を黒漆喰塗とし、棟に影盛を設けており、江戸で成立した見世蔵の原型を受け継いでいます。また、その多くが江戸時代末期から明治時代にかけて建てられたものであり、旧日光例幣使道を中心に商人の町として発展してきた歴史を色濃く残していると言えます。

*戦前までに建設された建造物。ただし、門や塀などの工作物は含んでいない

  • 安政3(1856)年建造の見世蔵で、現在は市が取得しコーヒーショップに活用されている「綿忠はきもの店店舗」(栃木市万町:国登録)

  • 元糸綿商の佐山家が明治中期に建造した見世蔵。現在は、大正12年創業の「五十畑荒物店店舗」(栃木市倭町:国登録)

新たな新陳代謝を促すまちづくり

昭和50年代後半から、栃木市はさまざまな調査や計画策定によって歴史的資源としての栃木市中心部の町並みの整備等に着手していきます。平成8(1996)年には国による登録文化財制度が創設されると、市内の歴史的建造物は文化財登録が行われ、市民と行政が一体となったまちづくりの取り組みが進みました。その大きな成果のひとつが、平成24(2012)年7月に国の重要伝統的建造物群保存地区として嘉右衛門町一帯が選定されたことでした。

嘉右衛門町の場合、近年では歴史的建造物をリノベーションして、新たにここで商売をはじめる人たちが出てきました。これもまた、ここに住む人たちと行政が手を携えて進めてきたまちづくりの現在進行形です。今までこの地で生活を営んできた人たちと、新たにこの地に腰を据えて生活を営む人たちの交流が、町に新たな息吹を与えています。その根っこには、この地で育まれてきた歴史があるのです。

  • 「小池傳兵衛家」(『大日本博覧図 栃木県之部』:明治23[1890]年、栃木県立博物館蔵)。現在の油伝味噌(栃木市嘉右衛門町)

  • 嘉右衛門町という「地」で生活を営む人たちと歴史的建造物を「護る」人たちを魅力ある写真と文章で紹介した冊子『地と』(発行:栃木市総合政策部蔵の街課)
    *『地と』はこちらでもご覧になれます。
    嘉右衛門町伝建地区PR冊子「地と」
    嘉右衛門町伝建地区PR冊子「地と」2号

《参考文献》
  • 『日光例幣使道 奥州道中』(栃木県歴史の道調査報告書第二集:栃木県教育委員会、2011年)