いにしえのとちぎ発見
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事業のきっかけ

侍塚古墳について

侍塚古墳は大田原市の湯津上地区にある前方後方墳です。

上侍塚古墳と下侍塚古墳の2基を合わせて国指定史跡の「侍塚古墳」と呼ばれています。

古墳が築造されたのは4世紀後半頃とされ、当時の古墳の中では栃木県内でも有数の規模を誇ります。現在のところ、上侍塚古墳から下侍塚古墳の順に築造されたと考えられています。


湯津上地区と那珂川町小川地区も含めた、那珂川中流域のこの一帯が、古代の「那須国」の中心であったと考えられています。中国製の鏡などを副葬した「駒形大塚古墳」など古墳時代前期の立派な古墳が集中している地域です。

侍塚古墳の東側には那珂川が南流し、その流れは太平洋へと注いでいます。河川を利用した人々の交流が盛んであったと考えられる上、さらに那須地域は境を接する東北地方への玄関口に当たることから、古くから「ヤマト王権」にとって重要な地であったようです。


江戸時代前期、元禄5(1692)年には水戸藩の前藩主で「大日本史」の編纂を進めていた水戸光圀の命令で、古墳に葬られた人を解明するための発掘調査が行われました。調査の状況や出土品について詳細な記録を作成した後に、出土品は松板で出来た箱に収めて再度埋め戻し、崩れた墳丘などは修理を行いました。これら一連の行為が現在の学術的な調査に匹敵するものと考えられるので、この調査が日本で最初の発掘調査と言われることになりました。

また、下侍塚古墳はその優美な姿から「日本一美しい古墳」とも称されたこともあります。

上侍塚古墳

墳丘長

114m

墳丘幅

60.5m(後方部) 52m(前方部)

墳丘高

11.5m(後方部) 6.5m(前方部)

下侍塚古墳

墳丘長

84m

墳丘幅

48m(後方部) 36m(前方部)

墳丘高

墳丘高 9.4m(後方部) 5m(前方部)

国史跡指定年月日

昭和26年6月9日

侍塚古墳の発掘調査

これまでの調査の結果については、栃木県埋蔵文化財センターのホームページでも確認できます。

http://www.maibun.or.jp/samuraizuka_info01.html

令和3年度

測量調査、地中レーダー探査、発掘調査を実施しました。

測量調査
上侍塚古墳赤色立体地図
下侍塚古墳赤色立体地図

上侍塚古墳と下侍塚古墳について、詳細な測量調査を行いました。航空レーザーを利用して地表のデータを計測する最新の方法で測量しました。

地形を見やすく見ることができる赤色立体地図と等高線図を作成しています。

地中レーダー探査
作業風景
調査結果画像

上侍塚古墳の墳丘全体と下侍塚古墳の後円部墳頂部について、非破壊で地中の状況を確認するために地中レーダー探査を行いました。

肉眼では分からない古墳の段築の状況や、墳頂部に後から掘られた可能性がある穴の反応が確認できました。ただし、墳頂部では埋め戻された遺物の金属反応はありませんでした。埋め戻した場所が違うのか、もっと深く埋まっているのか。今後さらに調査を進める予定です。

発掘調査
上侍塚古墳 発掘調査の状況
上侍塚古墳 発掘調査の状況

上侍塚古墳の周溝部の発掘調査を実施しました。埋もれて分からなかった上侍塚古墳の周囲を巡っていた堀の様子が分かりました。古墳の西側では深い溝を確認するなど、存在がはっきりしていましたが、東側はやや整地したぐらいで堀の跡ははっきり分かりませんでした。普通は周囲をぐるりと巡るはずの堀が東側で見つからなかった理由については調査結果を検討の上、今後明らかにしていきます。

また、堀を埋めた土の上半部分は江戸時代に一度掘削された後に埋まっていたことも明らかになりました。水戸光圀は古墳の修理も命じたのですが、修理をするための土をここから取った可能性もあります。